16年前(1995年)のこの日の早朝5時46分、関西地方で大きな地震が起きた。後に「阪神淡路大震災」と命名される大地震だ。東京の人は地震慣れしているというが、我ら関西人にとっては度肝を抜かれる地震だった。僕の住む奈良県北部でも震度4,神戸・芦屋の最も揺れたとことは震度7。地震は火災も引き起こし、瓦礫の下で命を落とした人など死者6400人以上の大惨事となった。
じつは僕はその時、その奈良の家に「住んでいる」のではなかった。1991年11月に大阪に本社のあるメーカーから米国の販売子会社の財務担当者として赴任して以来、3年経過後、初めて一時帰国を許され、年末から先に帰っていた妻子の待つ留守宅に休暇で戻ったのだった。開港間もない?関西国際空港に降り立ったのが、確か1995年1月13日の金曜日。あまり縁起の良い日ではないが無事到着し、両親の出迎えも受けた。翌14日は久々の日本の家でのんびり過ごし、その夜は出国前に所属していた合唱団の練習に顔を出したかもしれない。新年会になったか? よく憶えていない。15日の日曜日は「成人の日」で実家を訪問したか? 翌16日の月曜日は振替休日。そんな曜日の並びだったと思う。そして、3連休明けの早朝まだ夜が明けぬうちに大地震が襲った。
僕は地球の裏側から帰ってきての時差ボケで午前4時ぐらいから起き出し、「書斎」で本棚の本棚の本をめくったりしていた。そのとき突然の「グラグラ」である。下から突き上げるような縦揺れがすごかった。そして周期の長い横揺れ。当時36歳だったが、過去に体験したことのない地震だ。立っていたので本棚にしがみついた。もっとひどい揺れだったら、本棚の下敷きになっていたことだろう。幸い我が家の被害は一階の食堂にある食器棚の湯飲み茶碗ひとつのみであった。飛び起きた家族にTVをつけるよう叫んだが、まだ5歳の娘と前夜に睡眠薬を服用していた義母は眠ったままであった。
夜明けとともに被害の状況~ヘリからの映像~がTVに映し出され、神戸の火災の様子や阪神高速道路の橋脚倒壊の姿があらわになってくる。月曜日夕方のアメリカ東部の会社に電話するが、話しているうちに震え出す自分の声に気づく。まだインターネットが普及し始めてまもなくの頃である。とにかく自分の無事とTVで見る状況を伝えた。
余震はしばらく続く。それでも僕は近所の理髪店に向かった。日本に帰って何がしたいかって、食べ物のことを除けば、暑い湯船につかることと、散髪屋さんで髪を切って貰い、頬や鼻の下に剃刀をあてて貰うこと。これが夢である。そして、時々の余震に怯えながら、行きつけだった(といっても家を建てて数ヶ月後に留守にしたのだが)ムラの散髪屋で平時なら至福だったろう時を過ごした。その週のうちに大阪の堺筋本町にあった高層ビル内の会社事務所を訪問。エレベーターホールや壁に埋め込んだ金庫室の脇にはひび割れができていた。震災当日、歩いて出社した市内在住の上司によると書類倉庫の中は棚が倒れめちゃめちゃになっていたという。数日経っても出社できない社員もいたし、会社を休んでボランティア活動をするという後輩もいた。
僕は休暇の日程もあるので22日のフライトでアメリカに戻った、幸いにも奈良から大阪への近鉄電車は平常通り運行され、上本町から関西空港までの空港バスのルートも問題なかった。ただ、阪神間の惨状は凄かった。阪急伊丹駅では高架の駅舎が潰れ、車両が動けなくなっていたのではなかったか? しばらくの間は車は道路もまともには通行できず、鉄道の復旧にも時間がかかった。幸いにも僕の知己で命を失うような者がいなかったのが不幸中の幸いである(と、いって良いものかどうか…)
ただ、この震災の教訓として、人々は「助け合いの心」を学んだ。絶望に陥らず、希望を持って、何でもいいから自分のできることで人を助けるという… この前の土曜日だったか、NHKのTV番組で「コトハナ」というNPO活動を知った。震災を経験した神戸の若者たちが中心となって、地震や津波の被害にあったインドネシアなどの人々に応援のメッセージを送るというものである。物質的な支援はもちろんのことながら、そういった気持ちの面での「支え合い」が大事なのではないかと思う今日この頃である。そして、日本の若者も捨てたものではない、といことも感じた。
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