昨今話題になっているこの『働き方改革』というコトバ。自分にとって???のところもあり、自分の働き方について少し書いてみることにした。
そもそも大学新卒で入った会社では財務部に配属されたのだが、決算期以外はあまり残業のない(※)部署だった。労働組合にもある程度力があったので36協定を順守し、そりゃ、4月などは休日出勤(最初のうちはカジュアルな格好で仕事するのがExcitingだった)もあったが、なんだか決算期は年に一回の「お祭り」みたいな感じだった。営業部門などは事情が違ったんだろうが、財務部の20歳代の若手は「若葉会」と称して週一回程度、終業後に会議室で勉強会(先輩が後輩に担当業務について講義する)を行い、その後、近くの居酒屋に繰り出し、かなり酔っ払うまで飲んだ。僕は奈良方面なので、それから難波経由の電車で帰ったのだが、梅田経由の「キタ」組は北新地界隈にある某先輩(この方はヨットの趣味も持ち、かなりの型破りだった)馴染みのスナックによく連れて行かれたそうだ。
それ以外にも同期の友人とちょっと一杯飲みに行ったり、1980年代当時人気だった大和実業グループ経営の「バニーちゃんの店」に行ったことも思い出す。会社帰りに先輩に連れられてLPレコード(1980年代も後半になるとCDになったが)を買いに日本橋の「ワルツ堂」に行ったりした。1986年に結婚しても、会社帰りに心斎橋をぶらぶらして、YAMAHAでスコアや楽譜を買ったものだ。
大学時代に男声合唱を始めたが、就職して落ち着いた夏頃にはOB合唱団に参加した。練習は大阪市内(当初は江坂だったが)で月に3回程度、働き盛りの30~40代の先輩はさすがに少なかったけれど… 僕はかなりの頻度で練習に参加し、年1回の合同イベント「五つのOB合唱団の会(ANCOR)」演奏会にも毎年出演していた。一方で地元の「フロイデ合唱団」にも就職1年目の秋から参加し、12月の「第九演奏会」や夏の「定期演奏会」に出演した。こちらの練習は毎週土曜日の夜。当時は20歳台の若者が多く、活気があった。
その後、結婚したり、一年間の単身海外研修があったりしたが、結婚して6年目に小さい子どもを連れて米国駐在。今考えると、この時期こそ「働き方」に問題があったかもしれない。海外駐在員という立場で結構夜遅くまで働いたり、土日も関係なしに会社に行ったりした。それでも余裕が出てきた3年目ぐらいにはニューヨーク・フィルの定期会員になって、平日の夜にマンハッタンまで出かけていったり、ゴルフに熱が入るようになった。仕事の一環で取引銀行と休日に(たいてい支店長/上司と部下たちの2組で)ゴルフをしなければならなかったし… カナダに移ってからは日本人の上司がいなくなって、さらに自由になった。ただ、合唱活動はままならなかったなぁ…
帰国後3年ほどで「選択定年制度」で早期退職したが、公認会計士の紹介で良い会社に巡り会った。最初は引き継ぎ相手の部長に「君の定時は夜8時」などと言われていたが、しだいに自身で「働き方改革」をし、あるとき『毎週水曜日は早帰りする』と宣言して、夕方6時半からの合唱アンサンブルの練習に参加することになった。これが我が師匠との出会いとなり、大げさに言えば僕の合唱人生を変えることになった。上司などいないも同然の状況で、勝手に土曜日の朝から出勤して決算や税務の仕事をすることもあったが、今はそれも懐かしい…
現在は会社に行っても「毎日が水曜日」状態でろくに仕事をしていない。さて、あと1年ほどで「60歳定年」の節目を迎える。他に迎えてくれる会社がないのなら「定年再雇用してもらうしかないな」とも考え始めている。管理職の重荷が肩から下りて、可能性があるという「海外演奏旅行」のために休みが取りやすくなればなお良し、である。そしてまた、「元気なうちにパリやフィレンツェに自由な海外旅行もしたい」とぼちぼち思い始めている今日この頃である。
(※)最初の数年間は通常月の締切・支払業務等で残業はせいぜい10時間/月程度。中間決算はあったけど、今みたいに四半期決算などない時代だった。まぁ、それだけたくさんの従業員がいた、ということだろう。海外駐在を終えて帰国した1998年には状況はかなり変わっていた。
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