毎年この日(1月17日)は忘れられない。しかも今年は22年前と同じ曜日まわりだ。ただし、当時は「成人の日」の祝日が1月15日に固定されており、16日が振替休日で17日のその時刻(午前5時46分)は三連休明けの朝。早い人は起きだして出勤・通学の準備を始めるだった。
僕はその時、時差ボケのため、「書斎」で本棚の本を眺めていた。前週の13日の金曜日!!の夜にその前年9月にオープンした関西国際空港に降り立ったのだ。米国に赴任して3年が経過し、3年2か月ぶりに一時帰国した。空港からタクシーで自宅に帰る道すがら、高速道路を降りて国道を走っていた時のことだが、道路沿いのコンビニに「酒」の大きな文字が出ていて驚いた。規制緩和で酒類販売が原則自由化されたようだ。まるで「浦島太郎」…
さて、その時、書斎で立っていた僕は激しい縦揺れに驚いた。数十秒続いたろうか? 階下では義父母が寝ていたが、義母は睡眠薬を飲んでいて起きなかったようだ。義父はTVをつけ、いち早くNHKニュースを見ていた。二階ではフローリングの床に畳を敷き、その上の布団で寝ていた。当時娘は5歳。妻とともに前年暮れから帰国していたが、彼女も地震には気づかず寝ていたようだ。震度4、その4年前に新築の我が家の被害は一階食堂の棚に入っていた湯呑茶碗1個のみ。
夜が明け、明るくなってTVに映し出される被害の状況に驚いた。アメリカの会社に電話を入れ上司と話したが、阪神高速の橋脚が倒れている映像を見て話している声が震えたことを覚えている。その後も余震が続いたが、そんな中、町の(といっても神社の前の)散髪屋で髪の毛を短くしてもらい、カミソリで顔そりをしてもらった。アメリカに行ったひとならわかるが、あちらではいわゆるカットをしてくれるのみだ。深い湯船のお風呂につかり、散髪屋に行くのが夢だったのだ。
その週のうちに、大阪・堺筋本町の会社に出向いた。ビルの5階が古巣のオフィスだが、エレベーターホールには大きなひびが入っていた。大阪は震度5だったか、書庫は棚が崩れ書類保存箱が散乱していたそうだ。神戸方面から通っていた社員は出社できず、当分ボランティア活動をする者もいた。
実家でも久々に両親・弟・祖母の顔をみて過ごしたが、滞在は正味10日間もなかった。お土産の「牛肉の佃煮」を買いに奈良市内の「そごう」まで買い物にも行ったっけ。1月22日(日)夕方には関空から出国。大阪上本町からのバスは道路状況をみながら迂回したが、予定通り出国した。JALじゃなかったのかなぁ? 古いパスポートを見るとサンフランシスコでアメリカに入国している。
あれから22年だ。いまは大阪の東部で別の会社に勤めている。人生いろいろだが、一番大事なのは自分の命。そして家族の命や財産。テロとか(近年こういうことも言わねばならなくなった)だけではなく自然災害からもそれらを守らねばならない。このあたりでは津波の心配はなさそうだが、地震国ニッポン、いつでも備えておかねばならないのだろう。それに比べれば、このところの寒波や雪の予想など大したことではない。
最近のコメント