ところで、1978年は僕にとっても特別な年だった。1年間の浪人生活のあと目指す大学に合格し、4月から待ち望んだ下宿生活が始まった。偶然ながら、小説家村上春樹やデイヴ・ヒルトン選手と同じような感じですね。僕はその年の6月に20歳になったんだけど。
下宿は神戸市灘区の六甲台にある大学に歩いて行けるところを母が「つて」を頼って探してきた。その知り合いの家(実は小さな神社)にほど近い賄い付きの下宿である。生まれてから20年近くも奈良の田舎を離れたことのない息子を住まわせるのに実に都合の良い下宿屋が見つかったものだ(※)。3畳一間プラス布団を入れる押入れと入口に半畳のスペースがあるくらい。ビニール製の衣装ケース(縦長のやつです)がそこにおさまり、三畳の間に勉強机と小さなステレオセットを置くと、あとは布団を敷くスペースしか残らなかった。朝夕の食事は階下の大家さんの食堂で。それほど広くないので、10名の下宿生が一度に食べるのは無理だった。
(※)どれほど田舎者だったかというと、挨拶に行った母の知人の家でトイレを借りたとき、用を足したあと水を流すと同時に給水タンクに水がたまってゆくのだが、手を洗ったあとも「水が止まらない、どうしよう」と焦ってしまった。家庭用水洗便所の初体験だったのだ。
というわけで、下宿の部屋にはTVがなく「娯楽室」もないので、プロ野球中継などTVが見たい時などは少し広い部屋かつTVセットを持っている先輩(たしか工学部の学生で少林寺拳法もやっていた)の部屋に集まったものだ。新聞も経営学部の先輩が「日経」をとっていたが、一般紙を他に誰かとっていたか憶えていない。隣の部屋の松江出身の先輩がジャイアンツファンで「報知新聞」を読んでいたか…?
このような環境下で~「アトムズ」のチーム名ゆえに小学生の時に「巨人」からひいき球団を乗り換えた~「小ヤクルトファン」の僕がスワローズの活躍をどのようにフォローしていたのか良く憶えていない。甲子園球場にはヤクルト=阪神戦を一度見に行ったくらいかなぁ。ただ、ヒルトンの姿は憶えているし、「赤鬼」チャーリー・マニエルが特大のホームランを打つ姿も… だが1980年のかわいそうなヒルトンの姿は目に浮かばない。幸か不幸か、僕がプロ野球中継をTVで頻繁に見るようになるのは、大学を卒業してまた実家に戻る1982年のことである。
(そして僕が村上春樹を読み始めるのは、地元の混声合唱団で知り合った浜松出身の女の子に「読んでみたら」と勧められる1983年のことであった…)
あの狭苦しい3畳の間取りは懐かしいですなあ。何度かお邪魔したような気がしますが、身動きがとれなかったような覚えがあります。
次項からはグリークラブの門を叩いたあたりを記載してほしいと思っています。
投稿情報: カツオ | 2011年9 月 8日 (木) 22:20
つのぶえさんには紹介したのですが、PHP新書の「プロ野球最強のベストナイン」という本を読んでいます。面白いですよ。
投稿情報: 平田陽一 | 2011年9 月 8日 (木) 23:00
灘区内の下宿には、自分も泊めてもらいました。その節はありがとうございました。
そういえば、自分も確か大学2年まではTVは持っていなかった気がする。その間どうしていたんだろう。記憶がない。
その後、君も知ってるC大のTが「TVがあったら勉強でけへん」とか言って、オレの部屋にTVを置いていったんだった。
さて、うどん屋の「扇矢」に行くようになったのも、この頃からということになるんだよね?
投稿情報: つのぶえ | 2011年9 月 8日 (木) 23:51