図書館で文春文庫になった遠藤周作著「イエス巡礼」を借りてきた。元々昭和50年代~ちょうど僕が大学生の頃~に書かれ、出版されたもの。文藝春秋に毎月連載されたものに記事タイトルの「イエスの復活」を書き下ろしで加え単行本として刊行されたとのこと。子どもの頃カトリックの洗礼を受け、キリスト教にまつわる題材で数々の作品を残した遠藤氏の文章はまことに分かりやすく、また、読んでいてはっとさせられるところがある。
とくに「イエスの復活は、基督教について考える我々日本人を往々にして途惑わせるものだ。死者が生きかえったなどということがありえるのだろうか。荒唐無稽に見えるこんな出来事をそのまま受けとめるのは、現代人にはとてもできない相談であろう。」で始まる最終章は「目からウロコ」ものである。
遠藤氏は「復活は蘇生ではない」と、きっぱり言い切っている。十字架に磔になったイエスの死体が処刑の翌々日に消え失せたことと、復活とは何の関係もない、とも。死せるイエスが弟子たちや人々の前に現れたことを、キリスト教用語では「顕現」というらしい。その弟子たちの神秘体験の大きさゆえ、聖書作家たちはイエスの復活を蘇生のように書かざるをえなかったのだと。「復活」は精神世界のものだと考えてよいのだろう。
これで、だいぶすっきりした。今年は先週の日曜日、4月8日が「復活祭」だった。僕は行けなかったが合唱団の仲間有志が練習場に使わせてもらっている教会で賛美歌などを歌った。毎年、春分の日の後の満月の後に来る最初の日曜日、がその「復活」の日になり、その前の金曜日にイエス・キリストが十字架に架けられ死んだ、とされるのは知識としては知っていたが、「復活」をそのまま受け入れるのは難しい気がしていたのだ。
ところで十数年前にアメリカのニュージャージー州のルーテル教会で見た復活祭の集会は今も強烈に印象に残っている。とくに雪の多かった冬の後、春とはいえまだ庭には雪が残っているような早春の日曜日だった。ステンドグラスを通して陽光が差し込むなか、教会中に "HE IS RISEN, INDEED" という言葉が繰り返し響き渡っていた。春が来た喜びも感じられ、僕も信者さんに混じって思わず唱和していた。
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